大革命時代が来ている!?
「いままでの栄誉は、これからには持ち越せない」
そのことは、「時代」が教えてくれようとしている。
・暴風雨による計画運休
・新型コロナウィルス防疫に伴う在宅ワーク
・緊急事態宣言に伴う大手メガ銀行の交替出勤
・百貨店各社の休業
「初めてづくし」が、この僅か1年の間にオンパレード。
昭和〜平成の時代では、電車が止まるなんてことも、会社を休んで良いなんてことも考えもよらなかった。「這っってでも来い」が暗黙の認識。
いままでの常識は、通じないし、通じなくてもよい。大事なのは、どう、変わっていくかだ。
よくルパン三世や、他のアニメの中で、一瞬、家を出た、その間に、家の中の全ての物がグルっと半回転して、再度、家に足を踏み入れると、全く別の部屋になっていた、なんてシーンを見たことがあるが、まさに、それに近い。
時代が大きく変わろうとしている。
一生懸命、古きにしがみつこうとしている間に、新参者がやって来て慣れ切った世界を一変させる。
近いところで言えば、日本のガラケー携帯が、当時世界最先端技術だったであろう「iモード」で世界を席巻するかという間際で、スマホ・iPhoneに塗り替えられてしまった。
古いところで言えば、新撰組が佐幕を全うして京で猛威を奮っていた矢先に、薩長により一気にひっくり返された。もっと古く言えば、公家が政をしていた時代が、武家が執権する時代に一転する。
新参する者が虎視淡々と力を蓄え、瞬時にして、それまでの慣習・情景を塗り替えていく。
今の状況も、少し似ている。昭和初期から長きに亘り、”会社員”という戦士達が神々しく活躍していたが、その言葉は、どこか古い響きと共に語られることが多くなった。
定年を迎え、出向・転籍先で、じっくり管理者という、今までなら、ある種、輝かしい物語も、パワポや、ITを使いこなせない世代は、「オブジェ世代」とまで揶揄される。
そのパワポさえ、古い道具類に入りつつある。いや、もう入っているか。
「過程」「経緯」とか不要 常に先進なものがあればの時代
それは「人」も同じなのである。

日本も他の先進国も、産業革命を経て、コツコツとモノやコトを進化させてきた。
昭和中期の洗濯機は、信じられないだろうが、回転レバーを回してローラーから絞り出して脱水していた。当時としては、画期的だったろう。それこそ、当時における、「今使えるモノ」だった。携帯電話の変遷も、それはそれは、並々ならぬ試行と努力と賜物だ。重いショルダータイプからの、ジョグダイヤルからの、カラー画面からの、テレビ付きからの、ワンセグからの、おサイフ携帯からの、スマホ誕生。
新幹線だって、英知の結集だ。
だが、今の人には、そんなことも、そんなことがあったという昔話さえ不要だ。
中国は、知恵の結晶の新幹線を、「我が国の技術」と言って、新興国に売りまくる。
車もテレビも、生活様式も、トイレも、電車も、色んなシステムや技術も、「今のもの」だけが必要で、使う側の、新興国も、若い人々も、目の前にある物が最新のものであれば良い。どう作られて来たか、どう変遷して来たかなんてほぼほぼ興味ない。
それは、「人」も同じなのである。「今、何ができる人なのか」だけが必要な情報であって、どういう経歴なのか、どんな学歴をお持ちなのか、なんて、ほぼほぼ関係ない。
自身、28年のファーストキャリアを以て、「そんなことが全く使えない、全く関係ない、『今の』実力主義」の世界」の中に身を投じていって、同じスタートラインで、若い世代と戦って敗れた経緯がある。だからこそ、余計に痛感する。
もっと、分かりやすく言えば、あれだけの天才「王貞治氏」や「イチロー氏」が、現役世代ではもはや活躍できないことに例えられる。
時代が大きく変わっていくことの前触れ
このところの、「これまでには発想さえもなかった『初めてものがたり』」が立て続く事象は、何かを示唆していると捉えて、新しい何か、「これから使えていくなにか」を始めていこう。
始めれば、その対象のモノ・コトとの間に、道が出来、そこを歩いて行けば、「進める」。
始めなければ、そもそも、「道」さえない、出来ない。「その対象のモノ・コト」に気付かないか、見えないか、暗闇の中のままだ。
自分達、40−60代が、そこに気付いて、事を起こせば、日本という国にとっても、世界にとっても、そして、自分自身や、同じ世代にとっても、少しずつだが、「古い人側」ではなく、先ほどの「『新参者』が力を蓄えて行っている側」、つまり、「一変して、変化をもたらせる側」になれるというわけだ。
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