周りからすると数奇な人生かも知れません。
特に不自由ない仕事運。ある種、逃げ切られる人生は確実だったと思います。
大手金融機関28年→役員とか大出世とは言わないまでも拠点経営→海外拠点→からの自主退職。
退職金と高利回りの企業年金という安定的背景がありながらにして、遣り甲斐を求めて(←ここは誰が何と言おうと本当の気持ちです。)、自主退職。
周りは驚きましたとさ。それはそうです。なに一つ、そこからわざわざ飛び出す必要なんざなかったわけです。
サラリーマンという、ある意味、「敷かれたレール」を飛び出すと、自主的転職を一度も経験されていない方には、経験のできないことばかりでした。
敷かれたレールでは見得なかった、青々とした草原が広がっていることも
敷かれたレールのなんと居心地の良いことも
敷かれたレールでは、絶対に気付けなかった、若者世代の有能性、即戦力性も
敷かれたレールでは、絶対に気付けなかった、昭和生まれ世代の、限界も
敷かれたレールでは、体験できなかった、あらゆる可能性も
敷かれたレールでは、仲間になることのできなかった、とんでもなくデキる営業人材も
敷かれたレールでは、絶対に知り得なかった、これまでの仲間の本性も
敷かれたレールでは、知り得なかった、退職世代からのヤル気の必要性も
敷かれたレールでは、気付け得なかった、「ここからのスタートでも、まだまだ世の中感動だらけ」の事実も
敷かれたレールでは、感じ得なかった、「まだまだ、人は優しくなれる」という実感も
敷かれたレールでは、全く想像し得なかった、現実という場所がハチャメチャ厳しいことも
敷かれたレールの上では、思いあがって気付けなかった「本気の努力・本気のヤル気」のレベルの違いも
敷かれたレールでは、見えなかった、わずか1メートル横の景色や、1メートル高い場所からの眺めも
自分の人生は、まだ終わったわけでもないので、それが、どれくらい、どうなんだとは決して言い切れません。実は、もっともっと、楽しいものなのか、厳しいものなのか、辛いものなのか、嬉しくて涙がでるくらいのものなのか。
どっちがどっちという結果/結論は尚早ですが、見えないでいたであろうことや、もの、人の性質が見えるのだけは事実です。
なにも、輪郭も、背景もない、白いキャンバスに放り出された感の世界。
その白いキャンバスの中で、これまで見たことのないような美しい花を、隅の隅っこの方で見つけることができたり、レールの上には載せようのない獣の糞を踏んでしまったり、レールを走っているだけなら、絶対あり得ない、「落とし穴」に落ちてしまったり。
ただ、基本は、「どこにどう進もうが自由」という事実はあります。
もし、50歳を超えても、生き甲斐や、遣り甲斐、働き甲斐を求めるのなら、レールから飛び出してみるのもアリです。
当然、取り巻く周囲環境もあります。ただ、人生一度きりです。しかも、100年時代とか言われ始めて、これまでなら、「50歳は勇退する準備の時期」でしたが、これからは、間違いなく「あとひと踏ん張りの序章」。
地域社会への恩返しや、老齢者への仲間入り、趣味の世界も大切ですが、今の時代、それを30年やっていくことになります。
人間の、多くの人間の、性根に根付く、本質は、「承認欲求」だと考えています。それは、何歳になっても持ち続けるものでしょうし、持ち続けるべきだと思います。
そう考えれば、やはり、勝手に置かれてしまう自分より、進んで自分を、思いのままの場所に置く方が賢い選択なのではないかと信じます。
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