説得力の限界
よく「俺はアイツを説得して○○をさせた」とか自慢げに言う人いるぢゃないですか。
相手の幸せを心から考えること、あるいは痛み分けなくして、「説得力」なんてありません。
社会人生活30年。「俺はアイツを」口調、もしくは、周りに豪語している人の「説得力」を
信じたためしがありません。
なぜならば、説得したと満足げ、自慢げにしている人が、その場から離れて、説得された側の
人と話を続けると、その場から離れた人の悪口や、愚痴しか出てきません。
結局、何も説得されていないのです。
「もう、この人には、何を反論しようが、自己満の世界に浸りたいために、自分に説教をしている」と見透かされて、途中からは、内心とは裏腹に、「うわべの同調」を展開しているのです。
とはいえ、「本当に理解したんだなぁ」と思わせるような場面もあります。
それは、その人に幸せを与えてあげたケースと、痛み分けをしたケース。
自分のことは全く触れずに、相手を心底、幸せな気分にしたケースと、
持論を押し付けることなく、自分の非を認めて、相手をなだめたケースです。
今まで、他人から、「説得」された場面を思い出すと、2つのケースが思い起こされるのではないでしょうか。
一つは、正論は言われたけど、なんか、心晴れないというか、もう、その人には説得されたくはないケース
二つ目は、あの人、あの人自身のプライドとか、一切見せずに、自分のことを思って言ってくれた。。。。あの時は、不思議と嬉しい気分だった気がするというケース
「説得力」なんて言葉での「説得」なんて、所詮、大半は一つ目のケースなんです。結局、押し切られただけで納得していない。「説得力」という言葉自体、それはもう、「押し付け力」であったり、「自己満に導く力」と同義語だと思っています。
「治癒力」か「痛み分け力」なんです。人に納得してもらえるのは。
それでも、そこに気付いていない人は、「説得が得意」「説得力がある方」などと口外してみせるのです。その手の人は、「裸の王様」気質であり、説得のあと、どう言われていようが気付かないタイプです。
ただ、悲しいかな。その手の人が、その手の人に評価されて、上に上に上り詰めていくのが
日本のこれまでのサラリーマン社会でした。
今後は、恐らく、「治癒力」「痛み分け力」を持つ人が勝ち残る会社社会になると信じます。
なぜなら、SNSの発達などで、本当は、説得もされていない人達の声が反映される世の中だからです。それは、負の側面もありますが、最終的には、プラス面の方が若干勝ると予想しています。
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