記憶力は、論理的思考を、明快な説明を、強力に補助する道具
40歳から、徐々に落ち始めて、50歳になると、感覚的ではあるが、友人の8割くらいの割合で、言葉が出て来なかったり、知人の名前が出て来なかったりする。
アルコールが入ると、「そうそう、アイツ、アイツ」と名前を最後までお互いに思い出せず終了する。「で、なんだったっけ?」みたいな、コントの一幕のような会話を繰り返す。
繰り返し同じ話をすると言うのは、記憶力の欠如の最たるものだろう。
歳のせいにしがちだが、ある脳科学者は「記憶力は歳をとっても落ちない」と主張する。
「最近、もの覚えが悪い」という負け惜しみも、「若い頃並の努力をしていないから」と理論付けられる。
他方で、さんまのSU PERからくりTVで、名コーナーだった「ご長寿早押しクイズ」では、珍回答のオンパレードを見るにつけ、「本当に記憶力は落ちないのだろうか」と訝しがったりする。
脳科学者の言うことを信じても、信じなくても、これからは、記憶力は、落とさないように努力しなければ、論理的思考が出来ないと考える。
「皆さんがよく知っているお話で例えましょう。『赤ずきんちゃん』と『ヘンデルとグレーテル』を想像してみてください。その共通点はこうです」
と講演講師に言われたとき、双方のおとぎ話を完全に覚えていなければ、共通点は、幾つも出て来ない。
うろ覚えしている部分や、完全に記憶から剥げ落ちている部分からは、何も生み出せない。
あ行の「お」、か行の「く」を忘却したとすると、「おく」の付く言葉は発せられない。似ていて、且つ、覚えている、「こ」や「す」を代用して発するが、意味が通じないのと同じように、うろ覚えしている部分や、記憶から飛んでいる部分があると、「しっかり確証のある、はっきりした見解」が発せられない。
45歳を超えたあたりから、妙に、評論家や、解説者の、自分や、友人の、「えー」とか「あー」とか、「あのー」とかが気になり出した。
脳が、必要な情報引き出しのために、色んな箇所を駆けずり回っている瞬間。
その後に出てくる言葉が、言い得て妙なケースもあれば、今ひとつなケースもあって、または、断定度合いを明らかに落としているケースもある。今ひとつなケースな場合、それを発している人も、なにか、申し訳なさげだったりする。
断定度合いを明らかに落としたケースでは、それでも踏ん張って、あたかも、そうであるような表情で取り繕っているかのように見えたりする。
その場面では、やり通せても、その言葉は、相手の心に響きづらく、そして残らない。
実際に、我々の心を打つ言葉は、自信を持って発せられた言葉だけだ。
我々が、ドラマや映画を見て、心打たれるのは、「あー」や、「えー」や、「うー」のない、そして、全ての単語、文章同士に、矛盾も、うろ覚えも、不確かさも一切ない言葉が綴られて出てくるからだ。
学生の成績は、「瞬発力」「発想力」「記憶力」勝負だった。そして、歳を重ねてからは、論理的思考力、説明力は実は「記憶力」ではなく「記憶維持力」「瞬発力」「発想力」だった
Aと言う理論がある。Bと言う学説がある。Cと言う真理がある。
全ての人が習ったことがあるとして、学生のときには、「頭がいい」と言われたのは、瞬時的な暗記力だった。Aも、Bも、Cも全て、それぞれ全ての内容も言えれば、「頭が良い」とされた。
ただ、社会に出れば、覚えたことを活用できる能力だ。Aも、Bも、Cも、その内容も全て覚えており、それを組み合わせられる能力。
Aにパーツが10個、Bに20個、Cに30個あるとして、それぞれを総当たりで組み合わせられれば、説明にも、論理的思考にも、事欠かない。覚えることは得意でも、忘れてしまって維持することが出来ていなければ、もの凄い基礎的知識、常識的知識の組み合わせしか出来なくなって、「誰でも知っていることを、なんか、頭のよく見えるように言っているだけ」と見透かされてしまう。
聞く方は、納得する、しないは別として、説明者が、有能か有能でないかを判断するだけなら、多くの知識は必要ない。
その場で出た質問に対して、「その答えは、大きく分けて3つ、その3つそれぞれに、3つずつの理由があります」なんて即座に出たら、それは、天才の部類だろうし、心酔して信じてしまうだろう。
思い出すことで、記憶維持力は磨かれる
そうは言っても、忘却するのが人間。忘却するからこそ、新たなことが入れられる。
命を落とさないために、強烈な記憶は忘れないように、長期記憶に保管される。
友達から、「いいかい。今日の◯◯時に、◯◯で待ち合わせだ。遅れる場合には、◯◯番に連絡してくれ」と言われて、◯◯のうち一つは忘れることはないだろうか。
ただ、例えば、「いいかい。高い場所から飛び降りたら、死ぬ。サメに食べられても死ぬ。毒を飲んだら、死ぬ」と言われていて、どれか一つでも、忘れている人間なんかいない。「えー、すっかり忘れてたよー」って、その3つに関して言える人はいない。
長期保管場所には、そうした強烈な記憶は残しておかなければならないため、一時記憶から長期記憶に移されるときに海馬が仕分け作業をする。
忘れても、何度も思い出すことで、「この記憶物は、そんなに繰り返し思い出すなら、生きていくために必要でってことで」と海馬が判断して、長期記憶に保管される。
「あー忘れた。ま、いいや、あとで思い出すだろ」では、海馬の「本気度だめし」に引っかかっている。重要なことならば、根性で思い出す必要がある。
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