「公園から遊具が姿を消していく」の巻~責任をなすりつけたい親と、無いほうが楽と思う行政と。

取り巻く環境・世界

先日、ローラー滑り台で、鋭利な刃物が仕掛けてあるというニュース記事を読みました。

「これで、また、遊具がなくなる」

誰しもが感じてしまったことでしょう。

そこには、40年前にはなかった理論が交錯する。

「うちの子供が危ないところだった。そんなもの放置しておくかね、普通。区役所の職員が毎朝、点検するのが、役員の仕事じゃない」という、とんでも恐ろしい責任転嫁をする親。

「また、うちんところに、クレームの電話が入る。どうせなら、仕事を増やしたくないし、責任なんて取りたくない。この時世、撤去しちゃえば、誰も文句も言わないさ」

というのはあくまで想像ですが、今の時代、双方ともに、これだけ極端な見解を持つ可能性の方が高くなっているからこそ、色んなものが、街から消えているのだと思います。

公園には、昔、「上り棒」もありました。地球儀みたいな形をして、みんなが中にのって、ぐるぐると回す、例のやつも、ほぼ全ての公園にあったのではないでしょうか。シーソーも、結構、壊れたり、朽ちたりしたものが平然とありました。タイヤの半分が埋まっていて、それに飛び乗っていくものもありました。

あとは、ブランコの4人乗り版、ブランコというか、ゴンドラみたいな、「あのみんなが知っている乗り物」も必ずありました。

珍しいところでは、迷路公園と言って、1メートル20センチくらいの高さの迷路が、普通に、自分の町の公園にありました。

珍しいところでは、とても巨大なアリ地獄みたいな遊具があって、グルグルと走って回って、遠心力を生かしながら、上に登っていくという、楽しみしかないものもありました。

池袋の東武百貨店の屋上には、木の形をした大きな大きな遊具があって、その中で、遊ぶと、木の上の家に住んでいるような感覚が味わえるものがありました。

上記の遊具ほとんどが、野ざらしで、ほぼ、管理者はおらず、今から考えれば、危険だらけでした。

どこかが壊れていて、頭を傷つけたり、ぶつけたり、普通に、ケガなんて今の子供たちの20倍くらいはしていたのではないでしょうか。

ゴンドラみたいなのは、振れる部分の鉄のところが不安定だったり、ブランコは、片方の鎖が椅子から取れていたり、シーソーは本当に朽ちていました。

今でも覚えているのですが、小学校1年生のとき、あの地球儀みたいな、回る遊具の上から、頭を出して、頭が取れなくなった事件とか、先生を呼ぶことになりましたが、みんなで笑っていました。

取れなくなった生徒も、取れたあと、普通に笑って、そのまま、何事もなかったかのように、平常に戻っていました。

今は、平常に戻るってことがなく、撤去か、学校が家庭に行って深くお詫びか、です。

小学生1年生や低学年ながらにして、壊れた遊具で遊ぶには、先見能力が試されましたし、たとえ、失敗しても、どの親が学校に来るなんてことは、本当にありませんでした。

自分たち子供だけで危険を回避したり、知恵を出したりしていました。

そこに、いつからか、親が入ってくるようになり、どんどん、責任転嫁合戦になっていくのです。

挙句には、主役子供には、一番悲しい撤去という選択。

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